2013年3月4日月曜日

憲法を改正しないのは危ない!憲法を改正しないと、どんな弊害がある?

【憲法改正をしないことによる弊害】

では、憲法を改正しないことによる弊害は何なのか。現実に、今、何が問題となっているのか。

一言で言うと、「立憲主義の実効性の低下」である。

憲法は、国家権力側の解釈(有権解釈)によって、せっかく国家権力を制限するものであるにもかかわらず、時の政権等によって有名無実化されてしまう。これは、国家権力の暴走を招く危険なことであり、憲法を権力者側に軽視されないよう、実効性を日々高め、維持していく必要がある。

憲法9条は、その最たる例で、素直に条文を読んだだけでは理解することが難しい法的解釈によって現実に運用している。このような解釈がまかり通ると、歯止めとして効かなくなり、より国家権力側にとって都合のいい解釈をされるのがエスカレートしかねない。

同じ条文でも、主権者国民の解釈・認識と、国家権力側の解釈・認識が異なってしまうのは問題であり、どちらに合わせるべきかといえば、国民の認識に合わせて解釈され、運用されなければならないはずである。

憲法が改正されずに無謀な解釈の中で現実の法の運用がなされることは、国民の憲法に対する信頼とそれに基づく権威を低下させる。国民が、国家権力(主に政府や裁判所)の憲法解釈を支持しているのか、そうでないのかが曖昧なまま

ということは、国家権力側の解釈を国民が是正しにくいということであり、する手段()をすることができず、エスカレートさせてしまう危険を増大させることになる。

憲法制定当時には想定しなかったような有権解釈が後の時代に出てきた場合に、その解釈は国民の解釈と違っているということを国民の意思・解釈として明確化し、国家権力に横暴な解釈をさせないために、憲法改正は必要である。


また、立憲主義の実効性の低下を防止するという観点だけでなく、より積極的な意味で、国民が望ましいと思う憲法を実現しようという場合にも、少数者である国家権力側が自らの強大な力を盾に、国民ではなく自分たちだけに都合の良い政治をすることを防ぐためにも、憲法改正は必要である。

たとえば、選挙制度改革で、政治家が意見をまとめることは難しい。「一票の較差」の問題では、最高裁度々違憲あるいは違憲状態判決を受けても、それぞれがそれぞれの利害をもっているから、国民は蚊帳の外で、時間をかけて議論しても国民が望む結論が出ない。ほかにも、新規参入が難しいような現職議員に有利な選挙制度を作ろうとするかもしれない。

もし、国民が望む憲法改正ができて、選挙制度に関するルールが望ましい形で憲法で定まったなら、このような問題に日常的に悩まされることはなくなるだろう。国民のほうから積極的に、○○という選挙制度が望ましいといわれれば、民主的な政府は、あえてそれに逆らって制度を運用する必要はない。

問題は、どのようにして国民が望む憲法改正をして、それに国家権力を従わせるかという点にある。現在は、これが非常に難しい。先の例でいえば、選挙制度についての憲法改正を発議するのは選挙でもろに利害関係のある政治家であるし、国政選挙の結果にかかわらず国会での議論の中である意味国民とは無関係に制度は決まるし、良い憲法規定だけできても国家権力側がそれに従わない運用をしてイタチごっこになるかもしれない。

これについて、私は解決案を提示し、論文で詳しく書いている。なお、その案を実現するためには、96条の改正だけではなく、別の規定を新設することが必要である。これについては、別のページで書きたい。




【明治憲法の欠陥】

明治憲法(大日本帝国憲法)は、一度も改正されたことがない。正確には、明治憲法は、敗戦により外部の圧力を受け、その最初の改正で日本国憲法になった。

しかし、それは明治憲法が理想的な憲法だったから改正がされなかったというわけではない。

特に、明治憲法11条には重大な問題(軍の統帥に関する大権が、一般国務から分離・独立して、内閣・議会の関与が否定されていた)があり、改正を必要とする内在的な理由があった(参考:芦部2007、18-22頁)。
(大日本帝国憲法)
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第73条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

(芦部2007、19頁)
統帥とは、本来は、作戦用兵の目的を達するために陸海軍を統括して活動させる国家作用を言う。この作用は性質上、専門的知識をもって機密裡に迅速に行われることが必要であるので、国務大臣の輔弼(大臣助言制)の外に置かれ、天皇が単独で行うべきものとされた。しかし実際には、政府からまったく独立の地位にあった軍令機関(陸軍参謀総長・海軍軍令部総長)が輔弼の任を務めた。軍国主義が支配的になるにともない、陸海軍大臣が武官であったため、憲法12条の定める軍の編成・装備などに関する事項(これは国務大臣の輔弼に属するもの)も、統帥事項だとされ、軍部の独裁を導く引き金となった。

11条と12条は抽象的な規定である。12条の規定が明確に統帥事項ではなく内閣・議会が関与すると書かれていれば、あるいは改正して統帥事項に含まれないと明確化することができれば、軍部の暴走を止められたかもしれない。

そもそも、大日本帝国憲法全体として、より民主的な憲法に改正することができていれば、元勲の権威が衰えた後も、憲法の欠陥を補えたかもしれない。

猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』中央公論新社、2010、100,101頁から引用 
東條新内閣と統帥部との最初の連絡会議が開かれたのは組閣から六日目の十月二十三日だった。議題は「国策遂行要領再検討に関する件」である。 /「統帥部」とはいわゆる「大本営」と理解していい。大本営陸軍部は参謀本部、海軍部は軍令部と称し、それぞれ参謀総長、軍令部総長をトップにもつ。俗にいう「軍部」とは、この統帥部と政府側の陸・海軍省をあわせたものを指す。戦後の教科書ではこの点の説明が少ないので混乱している者が意外と多い。/「大日本帝国憲法」では統帥権は天皇の大権に属する。“神聖にして侵すべからず”だから政府は関与できない。しかし事実上その大権を行使したのは天皇自身ではなく統帥部であった。統帥部は政府と別個に(勝手にといってもよい)作戦を発動できた。いわゆる軍部の独走とは旧憲法の“欠陥”により生じたものだ。/明治藩閥政権時代にはこの“欠陥”が露呈しなかった。山県有朋に代表される元勲らの権威が、制度的欠陥を人為的にカバーしていたからである。/東條内閣のスタートを「朝日新聞」は「統帥、国務、高度に融合」と報じた。軍人宰相なら、「統帥(大本営)」と「国務(政府)」の双方にニラミがきく、とみたのだった。しかし、東條はただの官僚にすぎず、元勲山県有朋ではなかった。時代がちがうのである。/連絡会議で政府側(陸相、海相も政府側ということになる)は統帥部側に全力で抵抗したが制度のカベは越えられなかった。

「不磨の大典」 として、憲法を変えないとする風潮は、このような制度的欠陥を放置し、ゆくゆくは悲惨な事態を招くことになる。憲法のアップグレードは不断に検討されなければならない。


軍国主義の台頭のなかで、明治憲法が定めていた「統帥権の独立」は濫用され、軍部の統制がきかなくなり、「臣民の義務」の強調によって、国民が戦争へと総動員されてしまった(高橋和之「日本」高橋和之編『新版 世界憲法集 第二版』岩波書店、2012、578頁参照〕。

中曽根康弘『政治と人生-中曽根康弘回顧録-』講談社、1992、332,333頁から引用 
どの憲法でも完全無欠のものはない。時代の流れとともに矛盾が露呈し、欠陥が明らかになってくる。明治憲法では、いわゆる統帥権の独立なる重大な弱点が大正時代から顕著になった。軍の統帥部と内閣の対立は、伊藤博文や松方正義ら元老が存在していたときには、その人間的迫力と見識とで政治と軍事が統一されていた。しかし、これらの元老が消え去ると、この人間的統合力は欠落し、軍部は統帥権の独立の名の下に、軍事を天皇に直属させ、内閣と対立し、国政を分裂させた。これが、大東亜戦争を引き起こす大きな原因となったのである。もし、大正初期に明治憲法を改正して、軍事も内閣に従属することを明確にしておけば、悲劇は防げたであろう。/この憲法の重大欠陥を見て見ぬふりをしたところに、戦前の日本の破綻があった。今の日本国憲法も、ようやく矛盾や欠陥が露呈してきて、見て見ぬふりをする限界が近づきつつある。現憲法の再検討は、国民的課題になってきているのである。

明治憲法の失敗を、教訓に しなければならない。同書では、「不安定な政権が派閥の波間に漂流して激しい政争の中に明け暮れる」ことや「政党政治に随伴する腐敗を断ち、政界を浄化する」こと、「大臣や各省が議会対策に明け暮れて、その隙に属僚政治が横行する弊」、「政党の行政官庁への過剰な介入」といった問題にも触れられている(373頁)。

政党政治の欠点を補うためには、一つだけの決定機構に依存するのではなく、それとは別系統の複数の決定機構を合わせて用いる必要がある、というのが私の持論である。

一つの議会では、議員自らの利害関係上、民主政治の自浄作用が働かない場面が必ず存在する。自浄作用が働かない場面についても、同じ一つの議会に任せておくのは、国民の側にとって非常に危険である。


憲法改正の発議は、議員の利害関係のために民主政治の自浄作用が国民の利益になるように働かないので、まさにこの「別系統の決定機構」を用いるべき場面である。

すなわち、「(96条改正で憲法改正要件が緩和されれば)政権が代わるたびに憲法を変えることになる。日本のようにまだまだ民主主義の意識が希薄で、定着していない国家では、ますます混乱するのではないか」(小沢一郎の講演での発言、2013年3月5日19時01分  読売新聞「96条改正なら、政権ごとに憲法変わる…小沢氏」http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130305-OYT1T01147.htm?from=ylist)という懸念や「時の政権に都合の良い憲法改正の発議がされやすくなる」といった懸念は、もちろん国民投票を挟んでいるのである程度回避できると思われうが、この「別系統の決定機構」によってより有効に解決できる。

たとえ国民投票があるとしても、投票のコストは大きいのだから、そこで諮られる案がなるべく国民にとって望ましいものであることに越したことはない。憲法改正の発議をする主体は、通常の議会とは別系統にする、というのが望ましいのではなかろうか(この制度を導入するためにも、もちろんそのための憲法改正が必要である)。そうすることで、国民にとっては望ましいが時の政権にとっては都合の悪い内容の憲法改正発議が積極的にできるようになり、立憲主義が強化される。

今の自民党憲法改正草案を見ると、立憲主義を強化するどころか、国民への強制や義務を強化し、国家権力に対する縛りはむしろ弱めるという、立憲主義とは真逆の方向に向かうきらいがある。現実にそうした憲法にしないためには、96条に国民投票の手続があるだけではいつまでたっても政権に都合の悪い発議はなされず憲法の欠陥を修復できないという点で不十分である。国民にとって望ましい改憲発議が適宜される決定機構にしなければならない。

これについて詳しくは別に述べるので、そちらを参照されたい。現在の小選挙区比例代表並立制では、民意が正確に反映されない、という問題もあるが、「別系統の決定機構」のあり方次第では、この問題をも解消することができる。




【憲法と現実】

ここでは深く立ち入らないが、明治憲法が改正されなかったために、致命的な問題が先送りにされてきた現象は、現在の日本国憲法においても同じように生じている。その例が、9条である。
…9条をめぐるわが国の現状はすでに破綻しているとしか言いようがない。/まず、「戦争」を放棄して「戦力」の不保持を誓っている9条の下で、自衛「戦争」を予定している自衛隊という名の「戦力」を保持している現実について、防衛省等の官僚は別にして、明確に説明できる者はいない。(小林節「破綻している憲法9条と現実」大阪日日新聞、2013/03/05) 
いうまでもなく実態は憲法規定から大きくかけ離れており、2009年度防衛費の額では、世界第6位(アメリカ、中国、ロシア、イギリス、フランス、日本の順)にあり、れっきしとした軍隊としての自衛隊が、日米安全保障条約のもとで海外派遣されている実態がある(辻村2011、263頁参照)。

憲法が現実の必要に追いついていないために、憲法と現実が大きく乖離してしまう。本来は憲法改正によって是正すべきにもかかわらず。現実の必要に合わせて、相当に無理な法解釈をして、憲法の規定を無意味にしかねないのは、9条に限らず立憲主義の観点から危険であり、良くない兆候である。

いくら憲法に立派な条文があろうと、国家権力に横暴な解釈と運用をされては、国民はなすすべがない。憲法の規定が現実にどう運用されるかはわからない。だから、本当に立派な憲法とは、国家権力がそれを横暴に解釈し運用することができない憲法である。

現実に自衛隊はあるのだから、それを横暴に運用することがないように、歯止めとなる憲法改正(運用のルールをきっちりと定めるなど)をしていくこと(改悪ではなく立憲主義の強化となる憲法政策)を考えるべきではなかろうか。


憲法政策上重要なのは、条文を立派にするだけではなく、それが現実にもしっかりと機能するように制度設計し、運用することである。


国家権力に対して、ルールを守らせる仕組みが十分に整えられなければならない。これは、違憲審査制さえあれば十分、という話ではない。

憲法典の運用によってつくられる実例が、法源としての性格を与えられるようになると、政治部門への憲法によるコントロールを弱めることになる(石村2008、330頁、同旨)。


ほかにも、「私学助成(89条)」の問題は、合憲・違憲説で分かれており、目的的解釈を用いる必要がある。

複雑に無理な法解釈をされる余地を減らすること。そのような解釈がされないよう、民意がどう解釈しているのかを明らかにすることが求められる。

「憲法改正の限界」について、国家権力側が憲法を自分の都合の良いようにいかようにも解釈する可能性がある、という前提のもとに、どう国民が望む憲法秩序を実現するか、という議論をすべきであると思う。




【憲法の誤り(以下、網中執筆、網中2013、21,22頁参照)】

日本国憲法は、昭和の戦争に日本が敗れた翌年の1946年、連合国最高司令官マッカーサーの命令下、草案は9日間という驚異的な早業で米軍によってつくられ、約半年の帝国議会の審議と修正を経て公布された。

拙速の副産物として、一国の最高法規に本来あってはならない誤記、翻訳ミス、用語の誤り、現実遊離の条文などの欠陥が残されている。

例えば、誤記の例では、7条の「国会議員の総選挙」(ほかの憲法の箇所では、衆議院議員と参議院議員と使い分けている。)がある。

翻訳ミスの例では、15条の「公務員を選定」は、「公選職の公務員(議員等)を選定」である。

現実からの乖離(遊離)の事例では、14条の「栄典はいかなる特権も伴わない」、33条の「司法官憲が発する(逮捕)令状」、57条の「会議(本会議)は、公開」、79条の「公金は、公の支配に属しない教育の事業に支出しない」など極めて多くの条項で見られる。
用語の誤りの例では、人権保障の条文の主語は「すべての国民」か「何人も」か、主語がないかの3つのいずれかであるが、その使い分けの区別が厳密になされておらず、22条の国籍離脱権の主語は、明らかに「何人も」を使用し、日本国憲法が外国人の国籍離脱権を認めるのは外国主権の侵犯となるであろう。

憲法改正のハードルが高いために、憲法解釈の変更や柔軟な対応によって対処してしまう(問題の先送り)のは、平和状態では殊更その危険性が意識されなくても、非常事態になると特にその欠陥が露呈する。







【参考文献】

本文中に示したもののほかに、

芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第四版』岩波書店、2007
網中政機編著『憲法要論』嵯峨野書院、2013
石村修「憲法変遷の意義と性格」『憲法の争点』有斐閣、2008
辻村みよ子『比較憲法 新板』岩波書店、2011





【明治憲法の欠陥(参考)】

明治憲法には、「首相」や「総理大臣」、「内閣」といった文字がない。明治憲法の規定からいえば、戦前の日本には首相も内閣もなかった(現実には、明治憲法発布の4年前の1885年に内閣制度は制定されている)。これは、憲法を起草した伊藤博文が、ドイツ・ベルリン大学の憲法学者グナイストのアドバイスを受けてそうしたものである。

それは、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると、国王(日本においては天皇〕の権力が低下するからという理由であった。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない、という意見であった。また、幕府を知っていた伊藤たちは、首相が徳川時代の「将軍」のようになっては困るし、また最後のような人が出て首相になるのも怖いと考えたらしい。しかし、この規定は日本に大変な災いをもたらすことになる。

昭和に入って、軍部がこの明治憲法の「欠陥」に気づき、政府を無視して暴走し始めたのである。彼らは「我々は天皇に直属するのであって、政府の指図を受けなくともいいのだ」という屁理屈を持ちだした。そもそも、明治憲法では「陸海軍は天皇に直属する」と明記されているのに対して、内閣や首相については一言も触れていない。これでは軍に憲法の条文を振り回されれば、政府に勝ち目はない。これが昭和5年のロンドン条約(海軍軍縮)を契機として起きた「統帥権干犯問題」の本質であった。

憲法の規定に首相も内閣もなく、したがって条文上、軍のことに政府が口出しできないと分かったとき、「昭和の悲劇」は始まった。これ以来、日本政府は軍部の意向に逆らうことはできなくなった。その結果、シナ大陸での戦争は止めどなく拡大し、挙句の果てには日米開戦に突入することになった。もし明治憲法制定にあたって、たとえ責任内閣制度でないにしても、首相について明確に規定しておれば、もう少し軍部の暴走に抵抗できたのではないかという思いは尽きない。伊藤が急ごしらえで憲法を作った大きな目的は、治外法権条項の撤廃にあったから、伊藤博文の罪を責めるのは少々酷であろう。

明治憲法は、いわば突貫工事のようにして作られたわけだが、それでも昭和になって軍が統帥権のことを持ち出すまで問題が起きなかったのは、元勲(のちに元老と呼ばれるようになる)たちがいたからである。元勲というのは、天皇の諮問を受ける維新の功臣たちのことで、当初のメンバーは、伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌であった(のちに西園寺公望、桂太郎が加わる)、彼らは文字どおり、命を賭けて明治維新を起こした人物であり、明治天皇の信頼も篤い。彼ら元勲たちが健在であった間は、憲法の欠陥が表面化することはなかった。

たとえば、明治憲法に首相の規定がないにもかかわらず首相が政府の代表者となりえたのは、元勲たちが次期内閣の首班を指名するという決まりになっていたからである。当時の感覚からすれば、元勲たちが推薦するというのことは、天皇の眼鏡にかなう人物であるということであった。そのくらい、天皇と元勲たちとの信頼関係は強かった。つまり、元勲たちが選んだということは天皇が選んだということに等しく、したがって、首相の決定に対して他の大臣や軍部が逆らうことは考えられなかった。それは天皇への反逆に等しいのである。だから「軍は政府の言うことを聞かなくてもいい」などというような人物なぞ、ありえなかった。天皇と元勲たちの信頼関係に基づく盤石の体制があったからこそ、伊藤は多少の傷は気にせず速成で憲法を作れたが、元勲たちがこの世を去ればどうなるかということを考慮に入れていなかったらしい。

実際、昭和初年になって元勲たちという重しがなくなってから、急に首相を軽んずる勢力が現れたといっても過言ではない。かくして憲法の条文は一人歩きを始め、軍部の独走を許してしまう結果となってしまった。軍部のクーデターが日本を揺るがした1932年の5・15事件や、1936年の2・26事件のとき、元老は公家あがりの西園寺公望ただ一人で、昭和になる前に、明治憲法の健全な担保ともなる元勲は、すべて死亡していた。元老一人では、元老会議のような力はなく、軍を抑えることはできない。

最も致命的だったのは、明治憲法が「不磨の大典」とされたことである。この言葉があるために、明治憲法はその条文を改正することはほとんど不可能に近かった・伊藤博文が「ポスト元勲時代」を見越して、憲法を実情に適った形で改訂していく道を残してくれていたら、昭和の悲劇は起こらなかったのでは、ということが悔やまれてならない。

明治憲法にも改正のための条項はあるが、「勅命」が必要である。その「勅命」が必要であると信じて、その手続きを実現しようとした人がいなかっただけである。もし「勅命」が出れば、議員の9分の4の賛成で改正はできた。

どんな憲法であれ、人間の作ったものである以上、欠陥はありえる。状況が変われば、憲法も変わらなければいけない。アメリカをはじめ、欧米の諸国は平均すると数年に一度は憲法に手を加えているが、これが正常なのだ。さらにイギリスの憲法は成文法ではないがゆえに、つねに変わり続けているといってもよい。

天皇の地位は、明治憲法でも日本国憲法でも同じで、立法府(議会)が作った法律に権利を与える役目を果たしている(渡部2010、75-91頁参照)。

渡部昇一『渡部昇一「日本の歴史」第5巻 明治篇 世界史に躍り出た日本』ワック、初版、2010


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